秀頼を産んだ淀殿と、子を産まなかった正妻・ねね。本当に不仲だったのか?
日本史あやしい話
■二人の不仲でとばっちりを受ける佐々成政(黒百合伝説)
ここで、二人の関係を物語る逸話を一つ紹介しよう。越中(富山県)に伝えられた「黒百合伝説」である。
時は、越中守護であった佐々成政が秀吉に破れて(富山の役、1585年)越中を追われ、肥後へと転封させられた直後のことである。成政が秀吉のご機嫌を取ろうと奔走したことが、そもそもの始まりであった。
成政は、秀吉に気に入られるには、秀吉が唯一頭の上がらない奥方・北政所に取り入るのが得策と判断した。彼女に気に入ってもらおうと、都では珍しい加賀白山の黒百合を献上することにしたのだ。「都では、誰も見たこともないような珍しい花ですよ」とでも勧めたのだろう。
北政所は、早速、その珍しい黒百合をあの忌々しい淀殿に見せつけてひと泡吹かせてやろうと、自慢げに茶会を開いたのである。茶室に活けられた一本の黒百合。もちろん、呼びつけられた淀殿の方は、自慢げに見せつける北政所の態度が気に入らなかった。
そこで一計を案じた。逆に一泡吹かしてやろうと、今度は淀殿が北政所を茶会に招いて、黒百合なんぞ、どこにでもあるわいと言わんばかりに、無造作に、竹筒に大量の黒百合を放り込んで、これ見よがしに見せつけたのだ。
ただし、さり気ない風を装っているものの、その収集に苦心惨憺していたことはいうまでもない。そんな事はおくびにも出さず、意地になってさり気なさを装っていたのである。
淀殿の謀に気がつかない北政所。これを目の当たりにして、黒百合など珍しいものでなかったと本気で信じ、これを贈ってきた成政を恨んだ。
もちろん成政は、哀れにも北政所にまで見捨てられた。その直後、一揆の責任を取らされて切腹を命じられてしまったというから、とんだとばっちりを受けたものであった。
(この佐々家の滅亡に関しては、成政に虐殺された側室・早百合が予言していたことが知られている。歴史人WEBの筆者記事「出世にとらわれた戦国武将・佐々成政の悲惨すぎる最期」を参照のこと)
■思いのほか、二人の仲は良かった!
さて、二人の仲が悪かったというのは、本当のことだったのだろうか? 実のところ、そう思えない節が、いくつも見出せるのだ。
そもそも、二人の仲が本当に悪ければ、秀吉が小田原に淀殿を呼び寄せようとした時、正妻である寧々がその仲介役になったことをどう説明しようというのか。寧々が本当に淀殿を気に入らなければ、わざわざ夫と愛人の手引きなどする訳がないと思えるからだ。
また、淀殿の最初の息子・鶴松も、生後1年にも満たないうちに寧々の元に送られているが、その養育にあたったのも寧々であった。鶴松亡き後、再び身ごもる茶々の安産祈願に寧々が同行したとも伝えられている。
さらに、茶々の息子・秀頼が天然痘にかかって臥せっていた時には、寧々がその容体を心底心配していたとも。これらの事柄から鑑みれば、二人の仲が悪かったとは、とても思い難いのだ。
あくまでも正妻・寧々は秀吉の妻としての役割を担い、側室・淀殿は後継者である秀頼の母としての立場に徹した。その立場の違いはあれども、二人が同じ土俵でいがみ合ったというような事はなかったという気がしてならないのだ。
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